笹野みちるの書き捨てコラムです。


by m_sasano
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仕事に取りかかる前の、夢想的雑感。

 あー、気が付いたら、なにやら忙しい。

 作らなければいけないこと、決めなければいけないこと、やらなければいけないことが山積みで、おつむパンパン状態でイマイチ冴えず、「明日明日〜」と先延ばしにしているうちに、全ての締め切りが一斉に迫ってきて、ようやくお尻に火がついた今日この頃だ(おつむ.....よりオシリが肝心ちゅうこっちゃろか)。思えば昔から私は、「締め切りギリギリ人間」なのだなあ.......あ〜あ今週中に全部終えるぞ! その前にウォーミングアップで、水洗便でひとひねり、してみましょうか。

 とはいえ最近、結構パターンがあって、今みたいな状況のときは、「あ〜もうこんなことやるって言わへんかったらよかった。次からは絶対やめよ。ごちゃごちゃ考えたりすんのホンマ嫌い。」とか思うのだが、いざ一仕事終わってみると、ものすごく気分が爽快で、お客さんや一緒に仕事した人達との相互作用で、自分も周りもさ〜っと気持ちよいヴァイブレーションに包まれてる状態に「やってよかったな〜。これからもがんばろっ♪」と思うのだ。だけど、しばらくしたらやっぱり人里離れた自然の中に行きたくて行きたくてしょうがなくなる。静かな場所に、無性に憧れだす。少なくとも老後はそうしたい、などと思う。
 メイ・サートンの『独り居の日記』という大好きな本があるが、ああいう風な老後だ。もちろん、大勢の人と仲良く楽しく暮らせればそれはそれで楽しいし、人のそういう計画を聞くとワクワクもする。でも、根本的な憧れは、日々草花や水や光や風や小さな生き物に接して、感謝に満ちあふれて、ゆったりと独りで時を過ごせるようになりたいな〜、というものだ。基本的に、静かな場所で、出来れば自然のそばで、なんの憂いもあせりもなく、ボーっとしていられれば何もいらないなあ、と思う。

 だけど、そんなふうに老後を過ごすためには前提条件が必要なのだ。「独りでも完全に『満ち足りている』心境」が、その頃までに出来ているかどうか、だ。その心境がないと、一週間やそこらの田舎暮らしならともかく、いつ来るともしれない死を待ちながらの隠遁生活など、なんだかんだ言っても間違いなく耐えられないだろう。
 いや、「独りでも満ち足りている」、というのは少し語弊があるな。「『独り』、と思いこんでいたその状況は、実は独りなんかではなく、自分の狭い自我意識を超えた広大な次元の存在に、常に包まれ、守られ、あらゆるものと自分とは、分け隔てなく繋がっているのだ」ということを、ハラの底から実感して、喜びを感じられているかどうか、ということだ。
 そうなれないのなら、老後の独り居生活なんて寂しいだけだろうし、寂しいくせに片意地はってやせ我慢の孤独を気取るなんて本末転倒だ。(だったら、即刻スナオにどこかの婆コミュニティーにウザがられても潜り込ませてもらおう。あちこちに出来そうなイキオイなのだ!(笑))そういうんじゃなく、本物の気付きからくる、満ち足りた「独り」があるのならば.....そういう「気付き」が本当に訪れるもので、そういう「心境」が現実にあるというのならば、その「心境自体」に憧れを感じているといった方がいいのかもしれない。

 しかし、いつもいつも私はなんでそういうことを考えるのか。

 「そういう心境に対する『憧れ』というからには、現実にはそういう『心境』にはなくて、結局、孤独でいるのが寂しいだけなんでしょ?だったらスナオに、人と円満に居続けるためのお作法をちゃんと身につけたら?」という声が聞こえる。
 そして実際、私の実生活といえば、ほぼそっちの感じだ。様々な人間関係を前に、色々なお作法を日々学ばされることも多い。あれやこれやの失敗に学び、あれやこれやの徳目の大事さを痛感したりする。思いやり、寛容、忍耐、率直......等々。

 だけどやはり、それだけだと違和感が残る。





 なぜなら、そういう努力をして培っている「人間関係」というのは、結局、「孤独を紛らわすための手段」でしかないような気がするからだ。

 ありとあらゆる「反省」をしてありとあらゆる「徳目」を身につけて、たとえ人間関係をどんなに円満に結んだとしても、結局「自分の寂しさを埋めるための処世術」に過ぎないとしたら、とたんに寒々しいではないか。必死になって他者との関係を繋ぎ止めようとする深層心理は、ただ孤独が怖いから。色々と考慮し配慮して行動する動機は、ただ孤立が怖いから。自分にしてほしいことを人にもしなさい、なぜなら、etc.........それこそものすごく寂しい。もう書いているだけで涙が出そうなぐらいだ。生きていくということが、そういうことでしかないというのならば、どんなキレイ事も結局はエゴイスティックな動機でしかないということになってしまう。かといって、「人生なんてしょせんはそういうものだ。人は寂しくて当たり前」と、ニヒリスティックにうそぶいてしまうのも、どこか間違っているような気がする。

 いや、間違っている、というよりは、「『ある事実』を知らないことが問題」、と仮定してみたらどうだろう?

 「ある事実」とは......つまり冒頭に戻るが、「独り、と思いこんでいたその状況は、実は独りなんかではなく、自分の狭い自我意識を超えた広大な次元の存在に、常に包まれ、守られ、あらゆるものと自分は分け隔てなく繋がっている」という事実だ。そして、それはハラの底から知ることが出来る、体得出来る類のものらしい、ということだ。

 実は昨夜、DVDで「ガンジー」を見た。
 素晴らしい映画だった。

 結局、全ての古今東西の宗教も.....宗教とも言えないあらゆる地域や民族の伝統的な教えも、煎じ詰めればひとつのことだけを伝えているにも関わらず、後続の人々がアタマの先だけで理解して、「ひとつ」であるはずのところに、「特別」や「例外」という線をたくさん引き、「あっち」と「こっち」、「生」と「死」など様々に切り刻んでいくことで次第に混乱と恐怖が形作られる。そして、やがては「敵」と「味方」の間で「恐怖」を土台にして「勇気」だの「正義」だのとドタバタ劇が始まり、果ては流血の惨事や戦争にまで至る。
 ガンジーの非暴力主義と、生涯に何度も行われる断食は、そんな「勘違い」のまま互いに傷つけ合っている人々に対して、「敵は外にあるのではなく、自分の中にあるのだよ」という確信に満ちたメッセージだ。すなわち、「勝手に区分して苦悩する自分の内側のエゴこそが敵なのだよ、あらゆる対立を超えて、一なるものに帰りなさい」という、「全てはひとつ」というところに完全に目線が定まっている人からの、生と死の区分を超えた呼びかけなのだ。

 「ガンジー」を見ながら、考えていた。
 自分のことや人のことや、宗教や社会のことを。「エゴ」というもののことを。

 「ものごとを区分する衝動」こそが、エゴの特徴的な活動パターンであり、そんなエゴからの離脱を何よりも説いているはずの宗教自体が、その区分に何よりもこだわって宗教同士のエゴイスティックな争いが起きてしまうのはなぜなのだろうか。

 それは結局、宗教者自身、いや、人というもの全般が、「自分独りで満ち足りる」という真理への洞察や努力を放棄しているからではないだろうか。

 では、なぜ放棄してしまうのか? 

 当然ながら、やはり面倒なのだ。最初の人は多分、すごく緻密に自ら洞察し努力した。後の人達がメンドクサクなって「あの素晴らしい人が真理というからには真理なんだろう」と、受け売りをはじめた。受け取る大衆も大概メンドクサがりで日々の生活に忙しく、真理については「ハイこれですよ」と出してくれるものを疑いなく受け取りたい.......あるいは、もっと根深い深層の恐怖からか----完全なる自由を手にすること(=エゴの死滅)へのエゴ自身の根元的な抵抗か----とにかく洞察を放棄してしまうプロセスは色々考えられるが、いずれにせよ、次第に「真理」が「体得」できるものではなくて「お仕着せ」で「押し頂く」ものになってしまったのだろう。

 すると、その構造に味をしめてくる人達が出てくる。
 「『自分独りで満ち足りる』なんて出来るはずないですよ、それは傲慢ですよ、孤独は恐ろしいですよ、強がりはやめて、私達の絶対的な真理を受け入れてこちらにきなさい、そうでないと道を間違えますよ」的な、真理を語る「権力」からの誘惑。そして、そんな「権力」への手っ取り早い同意・忠誠。そのことと引き替えに手にする、薄っぺらな「帰属意識」による日常の安心感。
 もっとも、権力を振りかざす側の衝動も、煎じ詰めれば「孤独」に対する恐怖なのではないか。「権力欲」「支配欲」「征服欲」などというものも、根っこのところでは「孤独と喪失(=死)が怖いから、力と仲間(=子分)が欲しい」というものなのではないか。

 弱者も強者もみんながもたれかかって慰め合って脅し合って怯え合っている。

 もし人が、権力を持っている人もいない人も、「自分独りで満ち足りる」ということが可能であり、「全てはひとつ」ということを深いレベルで体得することが可能であるという事実を知れば、世の中の人と人(の延長線上にある民族とか国とか)との間のあらゆる問題も、あらゆる陳腐な権力構造も、あっという間に溶けていくのではないだろうか。
 つまり、なにもかもが.....個人や国家や民族や......あれやこれやの歴史の大部分が「勘違いからくる恐怖」に基づいて茶番劇を繰り返しているだけなら、そんなのバカバカしいし、本当にいい加減にするべきだし、第一、そんなの寂しすぎるよ、と思うのだ。

 ずいぶん話が遠くまで来た......でも結局、話は最初に戻りそうだ。
 私は今、人と共に仕事をし、人と付き合い、人の中で生きていかなければならない。

 当然、日々の社会生活上では「処世術」じみた言い訳でなりたたせている場面がたくさんある。「お作法」によって当座の平和を保っている日常もたくさんある。もちろん、単純な「お作法」やら「処世術」を無視して致命的に傷つけあうよりはマシだろう。
 でも、やはり不純な気がするのだ。それでは寂しいのだ。
 寂しいから愛し合う、ということ、それ自体が寂しいのだ。
 昔はそれでも十分美しいと思っていたが、だんだんと、そうではないのでは?と思うようになってきた。寂しくなければ愛しあわなくてもいい、ということになってしまうのなら、それこそ寂しいではないか。愛とはそんな自己保全に基づく陳腐なものではないのではないか。

 孤独を紛らわし合うためでもなく、互いの生活を支え合うためでもなく、自分がして欲しいことを人にもしてあげたいから、ですらなく、そういう条件や勘定を全く離れて、ただ純粋に「存在」できないだろうか? ただ純粋な愛、という状態が、自分が知らないだけで、確固として在るのではないだろうか? それを体得できれば、全ての答えを手にするのではないのだろうか? つまり、「自分独りで満ち足りる」、という在り方の中から、反転して膨大に押し拡がり浸透する純粋なエネルギー、すなわち、愛、が表れ出るのではないのだろうか?

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 なぜなら実はそれは、そんなに現実離れしたものでもなくて、ほんの一瞬なら、普段の何気ない生活にもその片鱗がかいま見れるように思うからだ。例えば、ある種の集中し澄み渡った空気、ある瞬間の爽快で開放的なヴァイブレーション......おおむね、知らず知らず無心になって集中しているような状態のときにふいに訪れる、拡がりや自由を伴う十全感で、それでいて、その場にしっかりと落ち着いて、くつろいで繋がっている感覚で、ライブ中でも打ち合わせ中でも人と会っていても、喫茶店でも、道を歩いていても、そこに人が誰もいなくても、ひとりっきりでも、その瞬間になりさえすれば、状況を選ばず訪れる........ただそれは確かに、時間的にはほんの「一瞬」の出来事ではあるのだが。

 で、本当にはじめに戻ってきたようだ。

 ........さて、私はこのあと、ちゃんと仕事をするだろうか?(笑)

 一瞬一瞬を無心に行為することの初心に、ここまで文章を書き連ねてきて、やや戻ってきただろうか? 「憧れ」と「今」を分離しては落胆し、逃避したり攻撃したりしてしまうこと自体もエゴの仕業、勘違いだと観念したか。
 ならば集中だ。老後だとかなんだとか言って切り離さず、常に今ここに。

 その繰り返しのただ中で、ふと「独りで満ち足りて存在していられる」ようになっていられればそれでよし。そして、今の私からの.......願わくば.......そういう心境になってこそ、いっそう人のそばにあって、恐れからも完全に自由に、純粋に存在しつつ、ただ単純に、愛することが出来ていられればなあ、と思うのだ。

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by m_sasano | 2005-05-18 23:21